第3回日本オープンゴルフ選手権(1929年)
2022.02.14
ゴルフドム1929年6&7月号(日本ゴルフ協会所蔵)
史上初の“300切り”で宮本留吉が大会初優勝
プロツアーなどトップクラスのゴルフトーナメントは72ホールのストロークプレーで行われるのが一般的だ。今年、2022(令和4)年1月に米ツアーのソニーオープン・イン・ハワイをプレーオフの末に制した松山英樹の72ホールのストローク数は257だった。米ツアーの記録(253ストローク)まであと4ストロークという素晴らしいものであるが、今の時代、トッププロならこれくらいのスコアを出してもさほど驚きはない。だが、黎明期は72ホールで300を切るということが大変だった。現存する最古のプロトーナメントである全英オープンが72ホールストロークプレーになったのは第32回大会の1892(明治25)年から。この時のスコアは305で、初めて300を切ったのは12年後の1904(明治37)年だった。1895(明治28)年に創設された全米オープンは1898(明治31)年から72ホールで、最初に300を切ったのは1906(明治39)年。全英オープンから後れること2年である。
日本で初めての72ホールトーナメントは1927(昭和2)年に創設された日本オープンだ。第1回大会で勝った赤星六郎のスコアは309で、第2回大会覇者の浅見緑蔵は301。欧米のナショナルオープンと同じく、最初は300を切ることができなかった。だが、第3回大会で300を切る選手が現れた。宮本留吉だ。
日本オープンは神奈川県の程ヶ谷カントリー倶楽部で始まり、第2回大会は東京ゴルフ倶楽部駒沢コース(東京都)で開催された。第3回大会の会場は大阪府の茨木カンツリー倶楽部。日本オープン初の関西開催だった。
茨木CCは日本初のプロトーナメントである1926(大正15)年の第1回日本プロを行ったコースである。以降、同年の関西オープン、1927(昭和2)年日本プロ、1928(昭和3)年関西オープンとすべて36ホールストロークプレーのトーナメントを開催してきたが、誰も150を切っていない。余談だが同CCは現在36ホール有しているが、当時は18ホール。この18ホールは現在の東コースにあたる。
茨木CCは宮本留吉のホームコースである。宮本はここまで茨木CCで4回開催されたトーナメントのうち2回優勝しているが、最も良かったスコアは153だった。
さて、関西初開催の日本オープンは6月8日と9日に実施された。ゴルフ誌のゴルフドムによると距離は6300ヤード。パーに関しては同誌に記述はないが、72だったようだ。ちなみに第1回日本プロが開催されたころはパー69だったが、1927(昭和2)年9月に拡張工事を終えてパー72になったという記録が残っている。
出場したのはアマチュア8人、プロ9人の計17人である。アマチュアの出場資格はハンディキャップ8以内。前回大会優勝の浅見は兵役で欠場だった。
天候は両日ともに良好で、ゴルフドムはコースの状態も含めて「ベストコンディション」と報じている。
宮本は初日の前半を77で回り、安田幸吉と首位を分けた。第2ラウンドではアウト39のあと、インでは14番から3連続バーディーを奪って33の好スコアをマーク。このラウンドはパープレーの72とした。ゴルフドムはこの72を「全野を驚かし」と表現。それくらい、素晴らしいスコアだったわけだ。 2ラウンド通算では149。初めて茨木CCで150を切った。もちろん、首位である。
153をマークして4打差の2位につけたのはアマチュアのブルロック・ウェブスターという選手だった。ゴルフドムは「唯一人のインヴエーダー」と書いている。同氏は英国出身で所属はサニングデールGCとなっている。海外出身の選手では鳴尾ゴルフ倶楽部のメンバーであるH・C・クレーンも出場しているから、「唯一のインヴエーダー」であるウェブスターは日本在住ではなかったと推測できる。実際、日本オープンの出場はこの年1回きりで、日本アマへの出場歴も見当たらない。ゴルフドムや大阪日日新聞は肩書きを「キャプテン」としているから海軍大佐あるいは船長だったのかもしれない。日本に寄港したタイミングで出場した可能性はある。この5年前に米国のカリフォルニア州アマで優勝した記録があるから、かなりの腕前だったようだ。
最終日、宮本は5打差3位につける安田との組み合わせとなった。ウェブスターは第3ラウンド前半で44と崩れて後退。第1回大会チャンピオンで2年ぶりに出場した赤星六郎は初日160と出遅れており、優勝争いは宮本と安田に絞られた。
第3ラウンドは宮本74で安田は73。その差は4打に縮まっていた。最終ラウンドのアウトは宮本が36で安田は37。宮本5打のリードで最後の9ホールに入った。
11番で安田がボギーを叩き、6打差に広がる。12番で宮本がバーディー、さらに13番で安田がボギーとして残り5ホールで8打差と勝負は決まったかに思われた。だが、ここから宮本の変調と安田の猛反撃が始まった。 宮本が14番の第1打をOBとしてダブルボギー。安田はパーで6打差となる。15番パー3で安田は2ヤードにつけてバーディー。5打差に迫る。16番で安田が長いパットを決めて連続バーディー。これで4打差だ。17番パー4、宮本は2打目をバンカーに入れてボギー。あと1ホールながら差は3打にまで縮まった。
18番パー5は左に池が待ち受ける。宮本は1打目を安全に右に打ち、堅実に3オン。さすがにこの時点で勝負はあった。安田は2打目でグリーン近くまで運んだがパーに終わる。宮本は3パットしてしまったが2打差で逃げ切った。最終ラウンドの宮本のスコアは75だ。72ホール通算では298となった。日本選手が初めて300の壁を破った瞬間だった。
ゴルフドムは「77、72、74、75というスコアは世界のチャンピオンシップに於いて見られる如きのものである。(中略)新チャンピオンの宮本に依って代表される日本のゴルフは最近非常な進歩といってよい」(一部現代語訳)と讃えた。実際、この年の全英オープンの優勝スコアは292で全米オープンは294であるから、数字上は大差ない。
宮本はこの年の11月、安田とともに日本人プロ初の海外遠征でハワイアンオープンに挑戦。米国の強豪に交じって3位で最終日を迎えるという華々しい活躍をみせた(最終順位は13位)。ゴルフドムの言う「非常な進歩」を世界の舞台で実証した形だった。そして翌年の日本オープンで宮本はさらに驚異的なプレーを見せつけることになるのである。
(文責・宮井善一)
プロフィル
宮本留吉(みやもと・とめきち)1902(明治35)年9月25日~1985(昭和60)年12月13日 兵庫県出身。小学生のころに神戸GC(兵庫県)でキャディーとして働きながらゴルフを覚えた。1925年に茨木CC(大阪府)でプロとなる。日本プロは第1回大会を含めて通算4勝、日本オープンは大会最多の6勝を挙げている。また、海外遠征の先駆者として道を拓き、32年の全英オープンで日本人選手初のメジャー出場を果たしている。2012年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第3回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 宮本 留吉(茨木) | 298 | = 77 72 74 75 |
2 | 安田 幸吉(東京) | 300 | = 77 77 73 73 |
3 | 森岡 二郎(鳴尾) | 311 | = 81 76 75 79 |
4 | 赤星 六郎(東京) | 314 | = 82 78 76 78 |
5 | 高畑 誠一(茨木) | 316 | = 79 77 80 80 |
6 | A. Bullock-Webster(UK) | 317 | = 78 75 85 79 |
7 | 瀬戸島 達雄(武蔵野) | 319 | = 80 81 77 81 |
8 T | 越道 政吉(甲南) 石角 武夫(鳴尾) |
322 | = 81 82 77 82 = 83 77 79 83 |
10 | 村木 章(宝塚) | 328 | = 83 78 85 82 |
11 | 岩倉 末吉(程ヶ谷) | 337 | = 83 82 92 80 |
川崎 肇(東京) | 165 | = 85 80 | |
関 一雄(根岸) | 169 | = 93 76 | |
赤星 四郎(東京) | 172 | = 86 86 | |
大谷 光明(東京) | 175 | = 83 92 | |
藤田 欽哉(程ヶ谷) | 177 | = 88 89 | |
H.C.Crane(鳴尾) | 180 | = 90 90 |
参加者数 17名(アマ8名)