第23回日本オープンゴルフ選手権(1958年)
2022.12.12
1958年10月31日付日刊スポーツ
マッチレースを制して中村寅吉が大会3勝目
1957(昭和32)年10月のカナダカップにおいて団体、個人で「世界一」に輝いた中村寅吉の勢いは翌1958(昭和33)年になっても続いていた。産経招待、関東オープン、日本プロと次々にトーナメントを制し、第一人者としての存在感は増すばかりだった。10月28日、中村はこの年の4勝目を狙うべく日本オープンに挑んだ。会場は千葉県の鷹之台カンツリー倶楽部(7100ヤード、パー72)。日本オープンは初開催だった。
雨で冷え込んだ初日、パープレーの72にまとめた栗原甲子男が首位に立つ。1打差で石井朝夫、橘田規ら5人が続き、中村は2オーバーの74で7位につけた。
快晴となった2日目、今度は強い北風が選手を苦しめた。そんな中、24歳、売り出し中の橘田が、ただ1人アンダーパーの70でプレー。通算1アンダーで首位に躍り出た。
4打離れた2位には中村と木本三次。36ホールの最終日は橘田と中村、4位の林由郎が同組で、木本はひとつ後ろの組で4位の栗原、6位の藤井義将と回るというペアリングだった。
まだ「日本」と名のつく大会に勝ったことがなかった若い橘田はタイトルの重圧か、中村、林の大御所2人にはさまれたからか、序盤から崩れてしまう。優勝争いは43歳の中村と36歳の林の2人に絞られていった。
第3ラウンドを終えて通算3オーバーの中村が林を2打リードする展開。最終ラウンドに入ると、勝負どころを熟知する2人はギアを入れ替えた。アウトで中村は2アンダーの34、林は1アンダーの35をマーク。2人が他の選手との差を広げ、完全にマッチレースとなった。
インでも激しい攻防が繰り広げられたが「世界一」の看板を掲げる中村が一枚上だった。2打差で迎えた17番でバーディーを奪って林を突き離したのだ。
中村は最終ラウンドで69をマーク。通算イーブンパーの288で林に4打差をつけて2年ぶりの大会3勝目をつかみ取った。
日刊スポーツに掲載されている勝者のコメントを紹介しよう。「絶対に勝つつもりだった。第一日、第二日は無理せずトップに離されないようにしようと思ってやった。そしてきょうはいけると思ったので思い切りひっ叩いた」
第一人者のプライドと戦略、そして勝利に対する熱い気持ちが込められている。この1950年代後半は中村が最も充実していた時期だった。
それは、日刊スポーツに掲載されている敗れた林による中村評からも伝わってくる。
「パットには絶対の自信を持っているうえにウッドもアイアンも信じた通り打ってベストスコアの道を切り開いていくゴルフ。これは努力と経験の上に立つ実力者のみが出来るゴルフだ。そしてあの不屈の闘志にわれわれは負けるんだ」
中村はこの年、主要6大会で4勝。向かうところ敵なしだった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
中村寅吉(なかむら・とらきち)1915(大正4)年9月17日生まれ、神奈川県出身。1934年にプロとなるが、大輪の花を咲かせたのは戦後。50年の第1回関東オープンで初優勝を飾ってから第一人者へと駆け上がった。57年にはカナダカップで団体、個人の2冠を達成している。主な戦績は日本プロ4勝、日本オープン3勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。また、日本女子プロゴルフ協会初代会長として黎明時の女子プロ界を支えた。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第23回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 中村 寅吉(関東PGA) | 288 | = 74 73 72 69 |
2 | 林 由郎(関東PGA) | 292 | = 74 74 73 71 |
3 | 木本 三次(茨木) | 298 | = 74 73 75 76 |
4 T | 小野 光一(程ヶ谷) 栗原 甲子男(小金井) |
299 | = 77 76 75 71 = 72 76 77 74 |
6 T | 藤井 義将(福岡) 小針 春芳(那須) 島村 祐正(古賀) |
300 | = 74 75 74 77 = 74 76 73 77 = 74 77 74 75 |
9 T | 橘田 規(広野) 陳 清水(関東PGA) |
301 | = 73 70 79 79 = 76 75 75 75 |
参加者数 112名(アマ20名)