第20回日本オープンゴルフ選手権(1955年)
2022.10.17
1955年9月22日付スポーツニッポン
小野光一が逆転で3度目の日本一
9月19~21日、兵庫県の廣野ゴルフ倶楽部(GC)で開催された。参加は89人(うちアマチュア20人)だった。第1日、快晴無風のコンディションの中、首位に3人が並んだ。1アンダー71で回った石井廸夫、栗原甲子男、石井茂で、日刊スポーツ紙によると石井廸、栗原は「渡米選手」とあるので、この年に米国遠征をおこなった選手ということだろう。1打差で2位につけたのはこの年の日本プロを制して2冠を狙う小野光一(旧名孫士均)。2打差で3人が並ぶなど、予選ラウンドは混戦模様になった。連覇を目指す林由郎は4番のダブルボギーが響いて74の8位スタートになった。
第2日、石井廸が連日の1アンダー71をマークして通算2アンダーで単独首位に立った。2打差で石井茂と小野が続く。決勝ラウンドに進んだのは47位タイまでの53人でプレーオフは行わなかった。アマチュア2人(石本喜義、塩沢竜彦)が予選を通過した。
最終日は36ホール。小野が午前18ホールをパープレー72で回って抜け出した。スポーツニッポン紙には「試合前、小野は“36ホールズの競技は絶対の自信がある”と大言壮語していたが、午前のアウトを33でまとめた時は小野の面目躍如たるものがあった」と伝えている。
石井廸は小野、石井茂との同組で「事実上のマッチプレーの形になって精神的な重圧であまりに堅くなり過ぎた」(日刊スポーツ紙)と、午後の3番でOBをたたくなど午前77、午後80と崩れた。石井茂はティーショットが右に行くことが多く、午後81とスコアを落とした。陳清水が午後の13、15番でイーグルを奪って一時3打差に迫ったが、小野が通算3オーバー291で逃げ切った。
日刊スポーツ紙は「力の配分は的確なショットと共に際立っていた」とし、スポーツニッポン紙は「正確なショットもさることながら“技術、体力、度胸”の点でも一頭地抜いていた」と総括している。
読売新聞紙は、アマチュア2人について記している。ベストアマチュアになったのは甲南大の石本。「323とプロ張りの成績を挙げてベストアマになったことは今後のアマ界に大きな光を投じた」と評している。
小野は日本プロに続いて日本2冠を達成。1年おきに3度目の日本オープン制覇となった。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
小野光一(おの・こういち)1919年(大正8年)5月19日生まれ、旧満州出身。大連で生まれ、当地の星ケ浦GCでキャディーとして働いていたところ日本の財界人にゴルフの腕前を見込まれて37年に来日した。本名孫士釣(そん・しきん)で、帰化して小野光一と名乗った。程ヶ谷CC(神奈川県)を拠点とし、57年に霞ヶ関CC(埼玉県)で開催されたカナダカップに中村寅吉と組んで優勝する快挙を達成した。主な優勝は、日本オープン3勝(1951、53、55年)、日本プロ1勝(55年)、関東プロ5勝(49、58、59、62、63年)など。
第20回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 小野 光一(程ヶ谷) | 291 | = 72 72 72 75 |
2 | 陳 清水(関東PGA) | 296 | = 75 71 74 76 |
3 | 石井 朝夫(関東PGA) | 297 | = 73 72 77 75 |
4 T | 石井 迪夫(芦屋) 石井 茂(関東PGA) |
299 | = 71 71 77 80 = 71 73 74 81 |
6 T | 林 由郎(我孫子) 栗原 甲子男(小金井) 橘田 規(広野) |
300 | = 74 74 75 77 = 71 78 73 78 = 75 76 76 73 |
9 T | 関 新三(霞ヶ関) 島村 祐正(唐津) |
303 | = 77 76 74 76 = 79 73 76 75 |
参加者数 89名(アマ20名)