第2回日本オープンゴルフ選手権(1928年)
2022.01.24
写真はゴルフドム1928年5&6月号(日本ゴルフ協会所蔵)
浅見緑蔵が最年少19歳でプロ初制覇
5月26、27日、東京ゴルフ倶楽部(駒沢コース)で開かれた。JGAHPによるとコースは6160ヤードだった。第1回の覇者、赤星六郎は、ゴルフ場設計の勉強で渡米していたこともあって不参加。赤星四郎、川崎肇らトップアマ7人と、プロは2大会連続の浅見緑蔵、安田幸吉、宮本留吉に加え、越道政吉、石角武夫、福井覚治、大木鏡三の7人、計14人が出場した。大会は1日36ホール、2日間合計のストロークプレー。ゴルフドム誌が、大会を報じている。大会名は「全日本オープン選手権」となっている。8時45分に第1組がスタート。第3組で浅見と宮本がスタートしている。1番で浅見はパーオンしたが3パットのボギーで出ている。駒沢コースのグリーンが難しく「3パットが続出した」と記されている。浅見は78で回り、宮本は81だった。第4組で出た赤星は2つの3パットなどでアウトは41だったが、インは34で回り、75をマークして首位に立った。
第2ラウンドでは「宮本に期待したが金物(アイアン)思はしからず」(同誌)と、83で計164だった。浅見は午後になって調子を上げた。14番でバーディーを奪うなど73で回り、計151とした。赤星は午後からパットが入らなくなり、16番ではトリプルボギーをたたくなど79で浅見に3打差2位の154で1日目を終えた。安田と川崎が159で3位につけた。
最終日は、首位と20ストローク以上離された選手は出場できず、11人が今でいう決勝ラウンド進出となった。
午前、浅見は大きなミスはなく78で回った。赤星はアウト41をたたいたがインを38で回って79。浅見との差は4打差になったが、兄弟連覇へ食い下がった。追い上げたのは安田。74で回り、赤星と並んで2位に浮上した。
「浅見か? 赤星か? 安田か? メダルプレー(ストロークプレー)なれば、4,5点差は絶対安全を保障するに足りない」と、同誌が記すように、3人の争いはだれが勝ってもおかしくない状況だった。
午後になっても浅見は落ち着いたプレーを展開する。6番でバーディーを奪い、13番ではグリーンオーバーしてバンカーに入れたが「観衆かたずをのんだが、浅見さわがずパターを取り出し、軽く打った球はエッジで1度ジャンプして軽々スロープを転がり、ピン2尺(約60センチ)に近づいた軽妙さ」と同誌はアプローチの技を絶賛している。
6打差をつけた浅見は、14番でバーディーを取り、最終18番パー5では左のバンカーに入れたが第3打で4碼(ヤード)につけてバーディーとし、午後は72で回って4ラウンド合計301とした。14番でイーグルを奪った安田だったが時遅く、計308で7打差の2位に入った。赤星はスコアを崩したが最終18番で300碼(ヤード)のビッグドライブをみせてイーグルとしたが、310で3位だった。
浅見は優勝当時、程ヶ谷に所属していたが、実家は駒沢コースのすぐそば。子供のころにゴルフで遊び、9歳でキャディーとなったコースに「恩返し」をした形になった。同誌に優勝後の言葉が掲載されている。
「ただ勇敢にシッカリ各ショットをプレーしよう。人のプレーは見ない。スコアのことは考えない。ティーに立てばそのホールのパーのみを目指すことを堅く決心していました。2カ月前から週に2度来場しました」(抜粋、現代語)。
「後見役」として、前年覇者の赤星六郎の談話も掲載されている。
「浅見、安田は実によくプレーした。浅見のプレーは実に見事であった。今回ぐらいのプレーができれば、世界どこに出しても恥ずかしくない。安田はまだまとまってはいないが、一番小さい体で一番よく飛ばしている。宮本はいいところがあるが、目下スタンスが悪いからこれを直さねばならない。関西のプロは早くまとまりすぎているので、あれでは大成しない」(抜粋、現代語)。
当時はまだアマの方がプロよりも技術的に上の時代だからこその総評か。この後、日本オープンではアマの優勝はない。浅見が時代の先駆者になった。19歳9カ月7日での優勝は、最年少記録(JGAでは19歳10カ月と表記)として今も残っている。
この大会では最終日、観戦された朝香宮鳩彦殿下が優勝杯を浅見に直接手渡された。大会史上、宮殿下がカップを授与された例はこの大会以外にない。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
浅見緑蔵(あさみ・ろくぞう)1908(明治41)年8月20日~1984(昭和59)年6月19日 生家近くにあった東京GC駒沢コースでキャディーをしながらゴルフを覚えた。1927年の第1回日本オープンではアマチュアの赤星六郎に及ばず2位だったが、翌年の第2回大会で初優勝。同年11月に開催された日本プロでは20歳3カ月で優勝した。両大会の最年少優勝記録は現在(2022年1月時点)も保持している。2年間の兵役から復帰した31年には日本オープン、日本プロ、関東プロと当時の公式競技をすべて制して実力を見せつけた。日本プロゴルフ協会設立(57年)に尽力。63年からは同協会の第2代理事長(現会長職)を務めてプロゴルフ界の発展に寄与した。日本オープン、日本プロ、関東プロ各2勝。
第2回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 浅見 緑蔵(程ヶ谷) | 301 | = 78 73 78 72 |
2 | 安田 幸吉(東京) | 308 | = 83 76 74 75 |
3 | 赤星 四郎(程ヶ谷) | 310 | = 75 79 79 77 |
4 | 越道 政吉(甲南) | 316 | = 80 80 75 81 |
5 | 川崎 肇(東京) | 318 | = 81 78 80 79 |
6 T | 石角 武夫(鳴尾) 宮本 留吉(茨木) |
324 | = 84 85 76 79 = 81 83 82 78 |
8 | 福井 覚治(舞子) | 326 | = 87 81 81 77 |
9 | 大木 鏡三( ) | 328 | = 86 83 84 82 |
10 | D.S.Scott(東京) | 331 | = 83 84 83 81 |
11 | 大谷 光明(東京) | 339 | = 84 86 81 88 |
伊地知 虎彦(東京) | 171 | = 88 83 | |
相馬 孟胤(東京) | 177 | = 84 93 | |
藤田 欽哉(程ヶ谷) | = 90 NR |
参加者数 14名(アマ7名)