第16回日本オープンゴルフ選手権(1951年)
2022.08.22
ゴルフマンスリー誌1952年1月号
小野光一(孫士均)が初優勝
戦後2回目となった大会は、10月3、4日の両日、兵庫の鳴尾GC猪名川コースで、79人が出場して1日36ホールの計72ホールで行われた。ゴルフマンスリー誌1952年1月号に詳しいので、引用していきたい。話題になったのが、北海道から参加のアマチュア、米軍兵士で札幌に駐屯してたハリスのプレーで、最後まで優勝争いを演じて、第1回の赤星六郎以来のアマ優勝を日本のプロがどう防ぐかで大いに興味を引いたという。
第1日、前年覇者の林由郎が1オーバー145で首位に立ち、小金井のアシスタントプロから戦中の1943年にプロになった栗原甲子男が並走していた。
アマのハリスが1打差につけた。ハリスは前半をパープレーで回り、第2ラウンドも好調だったが、8番でグリーン上のボールを拾い上げてしまい、ペナルティーを課せられたという。
混戦模様で3打差以内に10人がいる状況。その中に、優勝候補の一角とされていた孫士均(当時、小野光一)、中村寅吉に加え、石井廸夫、石井朝夫、石井茂ら新鋭も顔をそろえていた。
最終日、午前の第3ラウンドで孫が抜け出す。8番パー5でイーグルを奪うなど1アンダー71で回った。午後も好調で、8番でまたもイーグルを取り、11、12番連続バーディーなどスコアを伸ばした。17番を終わった時点で通算2アンダー、2位に5打差をつける独走状態になった。
追う選手たちの中で、優勝候補の連覇を狙った林は第3ラウンドアウトでダブルボギーを2つたたくなど40を打って脱落した。同じく優勝候補の中村は第3ラウンドのアウト36で3位につけていたが、10番でウオーターハザードに入れドロップする処置を誤ってペナルティーを課されて9をたたき、こちらも優勝圏内から去った。
頑張ったのは若手。栗原が午後14,16番でバーディーを奪って2位に浮上した。石井茂は午後の10番から3連続バーディーが効いて最終ラウンドを1アンダー71で上がり、3位に食い込んだ。ハリスは最終ラウンドの3番で池に入れて7をたたくなど崩したが、インをパープレーにまとめて4位に入った。
独走の孫は、最終18番第2打を木に当ててダブルボギーにしたが、通算イーブンパーで悠々と逃げ切った。第1ラウンドで3パットを重ねて76をたたいてからのスタートだったが、見事なカムバックでの初優勝だった。
(文責・赤坂厚)
※名前は優勝当時の孫士均で記載
プロフィル
小野光一(おの・こういち、孫士均)1919年(大正8年)5月19日生まれ、旧満州出身。大連で生まれ、当地の星ケ浦GCでキャディーとして働いていたところ日本の財界人にゴルフの腕前を見込まれて37年に来日した。当時の名前は孫士釣(そん・しきん)。その後、帰化して小野光一と名乗った。程ヶ谷CC(神奈川県)を拠点とし、57年に霞ヶ関CC(埼玉県)で開催されたカナダカップに中村寅吉と組んで優勝する快挙を達成した。主な優勝は、日本オープン3勝(1951、53、55年)、日本プロ1勝(55年)、関東プロ5勝(49、58、59、62、63年)など。
第16回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 孫 士釣(=小野 光一、程ヶ谷) | 288 | = 76 70 71 71 |
2 | 栗原 甲子男(小金井) | 291 | = 73 72 72 74 |
3 | 石井 茂(川奈) | 292 | = 74 74 73 71 |
4 | R.E.Harris(USA) | 293 | = 72 74 71 76 |
5 T | 林 由郎(我孫子) 石井 迪夫(芦屋) |
295 | = 70 75 75 75 = 72 74 71 78 |
7 | 鈴木 源次郎(東京) | 296 | = 75 72 73 76 |
8 | 中村 寅吉(仙石) | 297 | = 73 73 77 74 |
9 T | 島村 祐正(九州) 上田 悌造(関西PGA) 石井 朝夫(関東PGA) 井上 清次(相模) 陳 清水(川奈) |
298 | = 79 70 77 72 = 75 78 73 72 = 72 74 74 78 = 75 76 73 74 = 77 74 76 71 |
参加者数 79名(アマ数不明)