第11回日本オープンゴルフ選手権(1938年)
2022.06.13
林萬福のティーショット(ゴルフドム1938年11月号=日本ゴルフ協会所蔵=より)
台湾出身・林萬福が日本オープン初優勝
戦争の影響で姿を消してしまった名コースがいくつかある。神奈川県の藤沢CCもそのひとつ。赤星四郎、六郎兄弟らの手によって設計され、1932(昭和7)年に18ホールが完成したが、1943(昭和18)年に海軍に接収されて閉鎖となってしまった。その藤沢CCで日本オープンが開催されたのが1938(昭和13)年のことである。パーはアウト36、イン37の計73という設定。10月11日から3日間、67選手が参加して行われた。
初日は4アンダーの69で回った林萬福が首位に立った。林は台湾出身で、当時は東京GC所属。日本オープンには1931(昭和6)年から参加しており、前年は自己最高の3位に入っていた。その翌月の関東プロで初優勝を飾り、1938年に入っても9月の日本プロでは予選で67、67の当時としては驚異的なスコアを叩き出してメダリストに輝くなど勢いに乗っていた時期だ。
2位は71で回った安田幸吉。前年覇者の陳清水は72で3位グループにつけた。
北寄りの風が吹き、冷たい雨が降った2日目は各選手スコアメークに苦しんだ。そんな状況でもこの日ベストスコアの73にまとめた林が通算4アンダー、142で首位の座を守る。2位は74で回った宮本留吉だが、2日間トータルは148で6打差。林が独走態勢を築き始めた。
36ホールの最終日も雨だった。ゴルフ誌のゴルフドムは「前日にも増して風雨は強くかつ冷たい」と報じている。好調なプレーを続けていた林は天候の影響もあってか、第3ラウンドは79と崩れた。6度目の優勝を狙う百戦錬磨の宮本と台湾の先輩である陳が2打差にまで迫ってきた。
最終ラウンドのスタート前、林はレインウエアの下に着ていたセーターを脱いだ。風邪気味だったので寒さを用心して厚着した結果、窮屈になってスイングしづらかったからだ。身軽になった林は本来の当たりを取り戻す。2番でバーディーを奪うなど、アウトをパープレーの36で折り返した。
宮本と陳は停滞し、代わって追い上げてきたのが若い戸田藤一郎と中村寅吉だった。アウトを終えた時点で中村が3打差の2位、戸田が4打差の3位に浮上していた。
それでも、立て直した林のゴルフは乱れなかった。インもパープレーの37でまとめ、トータル2オーバーの294で72ホールを終えた。17、18番で連続バーディーを奪って2位に浮上してきた戸田に3打差をつける快勝。初日から単独首位を守り切っての完全優勝だった。
前年の陳に続く台湾勢2人目の日本オープン制覇。ゴルフドムには「幸運にも名誉ある栄冠を頂くことが出来まして、私としてはこれ以上の喜びはありません」(一部現代語訳)という林の談話が掲載されている。
(文責・宮井善一)
プロフィル
林萬福(りん・まんぷく)台湾出身。15歳の時に台湾GCのキャディーとなり、陳清水に指導を受ける。1931年に来日し、程ヶ谷CCで修業。その後、東京GC専属プロとなった。主な優勝歴は日本オープン1勝、関東プロ3勝。
第11回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 林 萬福(東京) | 294 | = 69 73 79 73 |
2 | 戸田 藤一郎(広野) | 297 | = 73 79 74 71 |
3 T | 宮本 留吉(茨木) 中村 寅吉(程ヶ谷) |
298 | = 74 74 75 75 = 74 75 75 74 |
5 T | 陳 清水(武蔵野) 延 徳春(京城) |
300 | = 72 77 74 77 = 72 82 74 72 |
7 | 島村 祐正(武蔵野) | 302 | = 75 76 75 76 |
8 T | 村木 章(宝塚) 柏木 健一(広野) |
304 | = 76 78 74 76 = 79 78 73 74 |
10 | 安田 幸吉(東京) | 305 | = 71 79 76 79 |
参加者数 67名(アマ21名)