第1回日本オープンゴルフ選手権(1927年)
2022.01.11
ゴルフドム1927年6月号(日本ゴルフ協会所蔵)
初代チャンピオンはアマチュアの赤星六郎
全英オープンや全米オープンなど各国のゴルフ統括団体が主催する大会は「ナショナルオープン」とも称され、数あるトーナメントの中でも格別の重みがある。現存する世界最古のトーナメントである全英オープンは1860年に創設された。日本は江戸時代末期。桜田門外の変が起こった年でもある。
全米オープンが始まったのは1895(明治28)年。前年設立されたばかりの全米ゴルフ協会(USGA)が大会を開いた。
第1回大会の出場者は全英オープンが8人、全米オープンが11人と記録されている。いずれも小さな一歩から始まったのである。
日本ではどのようにして「ナショナルオープン」が始まったのか。日本オープンを開催している日本ゴルフ協会(JGA)が設立されたのは1924(大正13)年である。核となる事業の実施を総会で決議したのは2年後の1926(大正15)年秋。その中に「日本オープン選手権の開催」が組み込まれていた。
翌1927(昭和2)年5月28日、第1回日本オープンは神奈川県の程ヶ谷カントリー倶楽部(6170ヤード、パー70)で開幕した。程ヶ谷カントリー倶楽部は1967(昭和42)年に新コースを完成させて移転しており、当時のコースは現在の横浜国立大学にあった。
すでに前年、日本プロ(当時の大会名は全日本ゴルフ・プロフェッショナル36ホール・メダルプレー争覇戦)と関西オープンがスタートしていたが、ともに1日競技で36ホール勝負。日本オープンは2日間で72ホールを戦う国内最初のトーナメントだった。
出場したのはアマチュア12人、プロ5人の計17人。アマチュアの出場資格はJGAが制定したばかりのナショナルハンディキャップで「8」以内。前年の日本アマチャンピオン赤星四郎、弟の六郎、日本アマ3勝を誇る川崎肇、日本アマ歴代チャンピオンの1人でありJGA設立の立役者でもあった大谷光明ら錚々たるメンバーである。プロは宮本留吉、安田幸吉、浅見緑蔵、中上数一、関一雄という面々だった。
優勝候補と目されていたのは誰だったのか。東京日日新聞は大会当日朝刊の紙面で「大会前の練習では宮本、浅見がロング・ドライブに良い当たりを見せているが赤星兄弟あるいは試合に強い川崎氏あたりがかえって良いスコアを出すのではあるまいか」(一部現代語訳)とアマチュア優位の予想を掲載している。
実際、当時のプロはみな若く、試合経験も少なかった。海外でゴルフを学んできた赤星兄弟らトップアマがプロを指導し、育てていたという時代だった。中でも赤星六郎は米国留学中の1924(大正13)年に東海岸で行われたスプリングトーナメントという大きな大会に優勝するなど当代随一の腕前を誇っていた。
大会初日、ゴルフ誌のゴルフドムが「5月28日、快晴。よく手入れされたるコースは一両日前の雨に柔らか味を加え、申し分なきコンディションであった」(一部現代語訳)と記す好条件の中、第1ラウンドはコースレコードの74を出した赤星四郎がリードした。赤星六郎と浅見が79で続く。80を切ったのは3人だった。
午後の第2ラウンドで赤星六郎が、兄が樹立したばかりのコースレコードを破る73を叩き出して通算152。一気に首位に躍り出た。首位に立っていた赤星四郎は90と大きく崩れて5位に後退。浅見は第2ラウンドのアウトで36の好スコアをマークするがインは43と乱れて通算158。赤星六郎から後れること6打の2位で初日を終えた。
3位は160の宮本、4位は162の中上とプロが続く。首位から20打以上離れた選手は翌日のプレーをすることができない、いわゆる予選落ちとなる競技規則があり、第3ラウンド以降に駒を進めたのはアマチュア3人、プロ4人の計7人だった。
最終日、ゴルフドムは気象状況などを「この日更に快晴。風なく、コースのコンディションは引き続き申し分なかった」と報じている。東京日日新聞にはスタート順が掲載されており、第1組が川崎肇と宮本留吉、第2組が赤星六郎と浅見緑蔵、第3組が赤星四郎と中上数一、第4組が安田幸吉と「外一名」とある。「外一名」はプレイングマーカーだろう。初日も2人1組でのプレーだったようだ。
午前中の第3ラウンドで赤星六郎はただ1人の70台となる79で回った。同組の浅見は85と苦戦。80にまとめた宮本が浅見に代わって2位に浮上した。
9打の余裕を持って午後の最終ラウンドに入った赤星六郎は7番から3ホール続けて3パットの「6」と乱れたが、それ以降は安定したプレーで78。通算309で日本オープン初代チャンピオンに輝いた。後続に10打の大差をつける圧勝だった。
最終ラウンドで76をマークした浅見が宮本を抜き返して2位を死守。ゴルフドムは浅見に対し「ファースト・プロフェッショナルの名誉を得た」(一部現代語訳)と評している。
今ならばアマチュアで日本オープンに勝てば歴史的快挙と讃えられるが、当時の赤星六郎は勝って当然の存在だった。それは一緒に戦った各プロの言葉からも分かる。宮本は回顧録で赤星六郎のことを「はるかに仰ぎ見るほどの大選手」と記しており、安田はJGAの『五十五年の歩み』で「私が20歳の頃、赤星六郎さんがアメリカからお帰りになり、そこで初めて私共は本当のゴルフを見せて貰ったのです」と語っている。
浅見も同じ。『程ヶ谷40年史』に「赤星六郎さんはうまかったというよりは天才に近い人でした。私は勿論ですが安田さんも宮本君も、あの人が見に来ているトーナメントでは堅くなりました」という言葉が残っている。
大本命のアマチュアが勝つべくして勝った第1回大会。以降は著しく成長したプロの選手たちが覇権を争うことになっていく。
プロフィル
赤星六郎(あかぼし・ろくろう)誕生年については諸説ある。JGAの日本ゴルフ100年顕彰の資料では1898(明治31)年10月としている。鹿児島県出身の父・弥之助は実業家として成功。四郎、六郎の兄弟は東京で生まれ育った。米国留学中にゴルフを覚え、プリンストン大学時代1924年にスプリングトーナメントで優勝した。帰国後は日本ゴルフ界の発展に尽力。多くのプロを指導してレベルを引き上げた。第1回日本オープン優勝のほか、日本アマで1勝。1944(昭和19)年没。
第1回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 赤星 六郎(程ヶ谷) | 309 | = 79 73 79 78 |
2 | 浅見 緑蔵(程ヶ谷) | 319 | = 79 79 85 76 |
3 | 宮本 留吉(茨木) | 320 | = 83 78 80 79 |
4 | 赤星 四郎(程ヶ谷) | 329 | = 74 90 84 81 |
5 | 安田 幸吉(東京) | 331 | = 85 80 84 82 |
6 | 中上 数一(京都) | 333 | = 80 82 81 90 |
7 | 川崎 肇(程ヶ谷) | 335 | = 90 79 83 83 |
大谷 光明(東京) | 172 | = 86 86 | |
田中 善三郎(東京) | 174 | = 89 85 | |
伊地知 虎彦(東京) | 178 | = 90 88 | |
藤田 欽哉(程ヶ谷) | 178 | = 87 91 | |
関 一雄(根岸) | 179 | = 97 82 | |
野村 駿吉(東京) | 180 | = 87 93 | |
相馬 孟胤(東京) | 180 | = 91 89 | |
首藤 安人(東京) | 182 | = 94 88 | |
井上 信(東京) | 184 | = 94 90 | |
P.A.Cox(根岸) | 188 | = 94 94 |
参加者数 17名(アマ12名)