第41回日本オープンゴルフ選手権(1976年)
2023.09.11
優勝トロフィーを掲げる島田幸作(JGAホームページから転載)
6打差逆転で島田幸作が公式戦4冠を達成
1976(昭和51)年、日本オープンが50年目を迎えるにあたり国際化を目指して大物海外選手の招へいに動いた。その最大のターゲットがジャック・ニクラウス(米国)だった。一度は参加の意向を示したニクラウスだったが、後に辞退。日本オープン前に来日して前週のトーナメントでプレーしたジョニー・ミラー(米国)が急きょ出場を表明しながら、直後に撤回というドタバタ劇もあった。それでも全米オープン覇者のオービル・ムーディー(米国)や米ツアー1勝のジョン・シュローダー(米国)、マニュエル、セベのバレステロス兄弟(スペイン)らバラエティーに富んだ顔ぶれが海外から参戦。セベ・バレステロスは当時19歳だった。
会場は2年ぶり2度目となる茨城県のセントラルGC東コース(7262ヤード、パー73)。11月11日の初日は米国の若手、ジム・サイモンズが3アンダーで首位に立った。
2日目、サイモンズは77と崩れて後退し、代わって70で回った中村通が通算5アンダーで首位に出た。1打差2位は前年優勝の村上隆。この日ベストの69をマークして初日の10位から浮上した。
2年前にセントラルGCで日本オープン初優勝を飾った尾崎将司は青木功とともに6オーバーの49位で何とか予選は通過した。
連覇を狙う村上は3日目も堅実なプレーで2つスコアを伸ばし、通算6アンダーで首位を奪う。中村は76を叩き、通算2アンダーで呂良煥(台湾)と並ぶ3位に後退。村上から3打差の2位には宮本康弘がつけた。
11月14日、雨の中、最終ラウンドがスタートした。だがプレー中に雨は激しさを増し、村上、宮本、呂の最終組が7番に差し掛かった時に中断。結局、最終ラウンドをキャンセルして翌日全員が改めて18ホールを行うことが決まった。今ならば中断時点から再開となるのが当たり前だが、当時は違った。
村上に1打差にまで迫っていた宮本は残念がり、5つスコアを伸ばしていたセベ・バレステロスは不満をあらわにした。
仕切り直しとなった月曜日、雨は上がったが北西からの強い風が吹いた。上位陣が苦戦する中、6打差7位にいた島田幸作が猛然と追い込んできた。
アウトを3バーディー、2ボギーで回ったあと、12番から3連続バーディーを決めて一気に4アンダーの首位に躍り出た。
15番以降はパーにまとめ、4アンダーでホールアウト。後続2組の結果を待った。
1打差2位で続いていたのは中村と村上。最終組のひとつ前を回る中村は18番をパーで終了。残すは最終組の村上1人となった。
その村上は18番で2mのバーディーチャンスにつけていた。だが、自信を持って打ったパットがカップの縁をかすめた。この瞬間、島田の日本オープン初優勝が決まった。
島田は勝因のひとつに優勝を意識したのが終盤だけだったことを挙げた。そして「村上さんや中村君は最初から緊張していますから」(アサヒゴルフより)とずっと優勝争いの重圧の中でプレーしてきた相手を気遣った。
島田はすでに日本プロ、関西オープン、関西プロを制しており、これで当時の公式戦4冠を達成。史上7人目の快挙となった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
島田幸作(しまだ・こうさく)1944(昭和19)年5月7日生まれ、兵庫県出身。1964年にプロ入りし、1968年の日本プロで初優勝。通算12勝を挙げた。1999年の日本ゴルフツアー機構発足時に初代会長を務め、混迷期のツアーを引っ張った。2016年度日本プロゴルフ殿堂入り。
第41回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 島田 幸作(宝塚) | 288 | = 73 75 71 69 |
2 T | 中村 通(サントリー) 村上 隆(殖産住宅) |
289 | = 71 70 76 72 = 73 69 71 76 |
4 | 新井 規矩雄(パルコ) | 290 | = 74 71 74 71 |
5 T | Mya Aya(Burma) 宮本 康弘(パリス) Jim Simons(USA) |
292 | = 75 71 73 73 = 72 71 73 76 = 70 77 71 74 |
8 T | 安田 春雄(フリー) 呂 良煥(台湾) |
293 | = 71 76 72 74 = 73 72 72 76 |
10 T | 謝 永郁(三井ホーム) 関水 利晃(フリー) |
294 | = 76 74 72 72 = 74 76 71 73 |
参加者数 115名(アマ11名)