第39回日本オープンゴルフ選手権(1974年)
2023.08.14
公式戦4冠を達成した尾崎将司(アサヒゴルフより)
薄氷の逃げ切りで尾崎将司が公式戦4冠を達成
1971(昭和46)年の日本プロで初勝利を挙げて以来、尾崎将司の存在感は急速に膨らんでいった。1971年5勝、翌年は10勝(海外1勝含む)、次の1973(昭和48)年には5勝で、初め正式採用された賞金ランキングで1位に輝いた。当時、公式戦と位置付けられていた日本オープン、日本プロ、関東オープン、関東プロ(関西の選手は関西オープンと関西プロ)のうち3つを手中にし、残すは日本オープンだけとなっていた。
1974(昭和49)年になっても尾崎の勢いは止まらない。日本プロなど4勝を挙げ、万全の態勢で9月下旬、最後の1冠に挑んだ。
会場は茨城県のセントラルゴルフクラブ東コース(7136ヤード、パー73)である。直近3年の尾崎の日本オープン成績は3位、2位、4位とタイトルに迫りながらも届いていなかった。
広々として距離の長いコースは大会前から「尾崎向き」と言われており、自身もそう感じていた。初日、尾崎は4アンダー、69をマークして前年覇者のB・アルダらとともに首位に立つ。2日目も69で通算8アンダー。首位は9アンダーにまで伸ばした村上隆に譲ったが、絶好の位置で決勝ラウンドに向かった。前年惜敗し、こちらも日本オープン初制覇に燃える青木功は初日40位と出遅れていたが2日目68で5位に浮上した。
常陸宮ご夫妻が観戦に訪れた3日目、尾崎は長打力を生かし、5つのパー5のうち4ホールでバーディーを奪うなど7バーディー、2ボギーの68で回った。村上は69をマークして、ともに通算13アンダー。3位の日吉定雄は7アンダーで6打差、青木はスコアを伸ばせず9打差7位に後退し、優勝争いは尾崎と村上に絞られた。
最終日、尾崎はゲンを担いで優勝した前月の日本プロ最終日と同じ青いシャツ、青と白の格子柄のパンツというウエアでプレーした。大会前には鹿島神宮を参拝して勝利を祈願。それくらい勝ちたい気持ちが強かったのだ。
尾崎はアウトで5バーディー、ボギーなしの32という圧倒的なプレーをみせる。村上も1つスコアを伸ばしたがあっという間に4打差がついた。
だが、まだ手にしていないタイトルの重圧が尾崎に襲い掛かる。10番で50cmほどのパーパットを外し、11番では絶好のチャンスを決められない。13番パー5では2オンしながら3パットに終わった。
そして15番パー4、ティーショットを右にOBとし、打ち直しの3打目は左の池へ吸い込まれる。このホールはトリプリボギーだ。続く16番もボギーとし、村上との差はたったの1打となってしまった。
それでも尾崎は逃げ切った。17番で村上がグリーンを捕えられずにボギーを叩き、2打差。最終18番で村上が意地のバーディーを決めたが尾崎はパーにまとめた。
史上6人目の公式戦4冠達成。「苦しかった。本当に苦しかった」(日刊スポーツより)と喜びをかみしめた。
この年、31位に入ってローアマチュアに輝いたのは19歳の中嶋常幸だった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
尾崎将司(おざき・まさし)1947(昭和22)年1月24日生まれ、徳島県出身。徳島海南高校時代は野球部のエースとして選抜高校野球大会を制し、西鉄ライオンズに入団。実働3年で退団してプロゴルファーを目指した。プロデビュー2年目の1971年日本プロを皮切りに前人未踏の通算113勝(海外1勝を含む。1973年ツアー制度施行後は94勝)を挙げ、賞金王は計12回。2010年に世界ゴルフ殿堂入り。
第39回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 尾崎 将司(日東興業) | 279 | = 69 69 68 73 |
2 | 村上 隆(パリス) | 280 | = 70 67 69 74 |
3 | 山本 善隆(城陽) | 282 | = 71 70 72 69 |
4 T | 川上 実(大阪ゴルフ学院) Ireneo Legaspi(PHL) |
283 | = 76 71 70 66 = 77 67 69 70 |
6 T | 青木 功(日本電建) Ted Ball(AUS) 日吉 定雄(成田国際) |
284 | = 74 68 73 69 = 73 73 69 69 = 76 68 68 72 |
9 T | 杉原 輝雄(ファーイースト) 安田 春雄(マルマン) |
286 | = 71 73 73 69 = 74 73 69 70 |
参加者数 152名(アマ32名)