第35回日本オープンゴルフ選手権(1970年)
2023.06.12
優勝カップを掲げる橘田光弘(ゴルフ1970年12月号より)
スーパーショットで決めた大会史上初の兄弟優勝――橘田光弘
大阪で万博が開かれた1970(昭和45)年、国内のトーナメント数は30に迫ろうとしていた。ほんの10年前は10大会程度だったから、急成長を遂げていた時代だった。杉本英世、河野高明、安田春雄の和製ビッグ3や杉原輝雄が活躍していたプロゴルフ界に、この年、1人の超大型プレーヤーが加わった。尾崎将司である。
甲子園優勝投手にして元プロ野球選手という華々しい経歴に他を圧倒する飛距離で大きな注目を集め、デビュー時からジャンボというニックネームを授かっていた。プロ2戦目の関東オープンで優勝争いを演じて3位。注目度はうなぎのぼりだった。
9月末には日本オープンに初出場する。会場は埼玉県の武蔵カントリークラブ笹井コース(7010ヤード、パー72)。スポーツ紙は大型新人の動向を大きなスペースを割いて報じたが、予選通過ラインの5オーバー、149に1打及ばず、初めての予選落ちを喫した。
2日目を終えて通算6アンダーの首位に立ったのは後に尾崎のライバルとなる青木功だった。当時はまだ優勝経験のない28歳。飛距離は出るが安定感のないゴルフをしていた時期だった。
2打差の2位は台湾の謝敏男。2年前の関東オープンで日本初優勝を手にしていた。
3打差の3位にはベテランの陳清波と未勝利の橘田光弘がつけた。橘田は日本を代表するプレーヤーである橘田規の8歳下の実弟。兄の規はこの年、日本オープンに出場していない。
36ホールの最終日は青木、謝、橘田が最終組となった。第3ラウンド、首位の青木は74と乱れる。その結果、通算4アンダーで最終組の3人と前で回る陳の4人が並んだ。
さかのぼること1カ月と少し前、橘田は日本プロの最終ラウンドを同じ首位タイで迎えていた。初優勝をビッグタイトルで飾るチャンスだったが、73と苦戦し、佐藤精一に1打差で敗れている。その佐藤は足首の捻挫で今大会を欠場していた。
橘田は日本プロと同じテツは踏まないと心に誓っていた。最終ラウンドではまず陳が脱落する。最終組では謝が一時通算6アンダーとして抜け出すが、13,15番をボギーとして後退した。16番を終えた時点で橘田が5アンダーで首位、青木と謝が1打差で追っていた。
17番で青木がバーディーを奪って橘田に並び、謝はボギーで後退した。
18番パー4、青木の2打目はピンまで7mのカラーに止まる。対する橘田、5番アイアンのショットはグリーンに着弾するとピンに向かって転がり、大歓声の中、わずか20cmにまで寄っていった。
最後の望みをかけた青木のパットが外れ、橘田は難なくウイニングパットを沈めた。
1965、67年に日本オープンを制している兄・規に続き、大会史上初の兄弟優勝を成し遂げた橘田は勝因を聞かれ「最後まで優勝を意識しなかったことでしょうね」(スポーツニッポン紙より)と話した。惜敗した日本プロで得た教訓は周囲を気にせず自分のプレーに徹すること。その姿勢が最後のスーパーショットにつながった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
橘田光弘(きった・みつひろ)1942(昭和17)年7月3日生まれ、兵庫県出身。高校を出ると兄・規が所属していた廣野GCで研修生となり、1962年にプロテスト合格。70年の日本オープンで初優勝を飾った。79年の美津濃トーナメントでも優勝したほか、賞金ランキング対象外の競技では兵庫県オープンに2勝している。
第35回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 橘田 光弘(広野) | 282 | = 70 71 71 70 |
2 | 青木 功(関東PGA) | 283 | = 72 66 74 71 |
3 T | 謝 敏男(台湾) 安田 春雄(関東PGA) 関水 利晃(茨城) |
285 | = 72 68 72 73 = 74 71 71 69 = 73 71 72 70 |
6 | 陳 清波(関東PGA) | 287 | = 71 70 71 75 |
7 T | 河野 光隆(愛鷹) 小川 清二(関東PGA) |
288 | = 72 71 70 75 = 73 76 72 67 |
9 T | 石井 弘(関西PGA) 杉本 英世(アジア下館) |
289 | = 75 72 70 72 = 73 70 72 74 |
参加者数 114名(アマ19名)