第27回日本オープンゴルフ選手権(1962年)
2023.02.13
優勝カップを掲げる杉原輝雄(日本プロゴルフ協会30年史より)
格上2人との競り合いを制して杉原輝雄が初優勝
160㎝の小さな体でAONら大型プレーヤーと渡り合い、一時代を築いた杉原輝雄。飛距離のハンディをショットの精度と粘り強い小技でカバーして現役時代に50を超える勝ち星を挙げた。その、最初の一歩となったのが1962(昭和37)年の日本オープンである。会場は千葉県の千葉CC梅郷C(6940ヤード、パー72)だった。まだトーナメントが年間数試合しかなかった時代である。大阪府の茨木市出身で、自宅近くの茨木CC所属だった杉原にとって、関東遠征は年に1回あるかどうか。慣れない夜行列車に揺られて会場に向かった。
当時25歳の杉原は関西の月例では3連勝するなど好成績を残していたが、トーナメントの優勝経験はなく、若手伏兵の1人に過ぎなかった。
そんな杉原が2日目を終えて通算1アンダーで橘田規と共に2位につけた。首位は通算2アンダーの陳清波である。
陳はすでに名選手として君臨しており、橘田はこの年、中日クラウンズ(当時の大会名は中日招待全日本アマプロ)と関西オープンを制して勢いに乗っていた。36ホールの最終日、杉原は格上の2人と優勝をかけてプレーすることになったのだ。
9月28日の最終日は風が強く、多くの選手がスコアを崩した。そんな中、杉原と橘田は午前の第3ラウンドを1アンダーの71にまとめ、通算2アンダーで首位に立つ。陳は73で1打差の3位に後退していた。
午後の最終ラウンド、杉原はアウトで34をマークする。橘田は37と苦戦し、陳は36。通算4アンダーとした杉原が3打差で単独首位に躍り出た。スポーツニッポン新聞は杉原のプレーを「バックスイングでほとんどコックをしない独特のフォームから正確なショットを続け、しかも無造作に打つパットが実によく決まった」と記している。
最後の9ホールに入ったころ、杉原の目に観客の中にいる宮本留吉の姿が映った。当時、宮本は東京に拠点を移していたが、元々は茨木CC所属。杉原にとっては大先輩であり、独特のスイングを直すべきか悩んでいた時に「それでいい」とお墨付きを与えてくれた恩人でもある。
そんな宮本に見られている。杉原の緊張感は一層高まった。
硬くなった杉原は11、13、15番をボギーとする。再び混戦となった。17番は第1打を右ラフに入れた。17番は右ドッグレッグのパー4。グリーンを狙うならスライスをかけなければならない状況だった。強引に狙って外れた場合、どんなライになるか分からない。緊張感の中で杉原は冷静な判断を下す。選んだ作戦はグリーン左のバンカーを狙うことだった。
バンカーショットには自信があった。練習量という裏付けがあったからだ。実際、前のホールでもバンカーからパーセーブしていた。杉原の2打目は狙い通りにバンカーに入り、3打目を寄せた。
最終ホールではアプローチを寄せてパーセーブ。通算1アンダー、陳に2打差をつけ、念願の初優勝を日本オープンのビッグタイトルで飾った。
ホールアウトした杉原の手を宮本が握りしめる。「おめでとう、優勝カップが茨木に帰るのは22年ぶりだぞ」。22年前の日本オープンチャンピオンの言葉は杉原にとって最高の祝福だった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
杉原輝雄(すぎはら・てるお)1937(昭和12)年6月14日生まれ、大阪府出身。中学卒業後に茨木CCに就職。洗濯係を経て研修生となり、20歳でプロとなる。1962年日本オープンの優勝を皮切りに通算57勝。60歳の時、前立腺がんとなるが治療を受けながらプレーを続け、2006年のつるやオープンで68歳311日の最年長予選通過記録を樹立した。2014年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第27回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 杉原 輝雄(茨木) | 287 | = 72 71 71 73 |
2 | 陳 清波(東京) | 289 | = 71 71 73 74 |
3 | 橘田 規(広野) | 290 | = 69 74 71 76 |
4 | 中村 正夫(程ヶ谷) | 291 | = 76 73 70 72 |
5 | 小針 春芳(那須) | 293 | = 76 72 73 72 |
6 T | 石井 迪夫(芦屋) 今井 昌雪(大箱根) 勝俣 敏男(大利根) |
294 | = 72 75 72 75 = 74 73 73 74 = 70 75 79 70 |
9 | 木本 与(田辺) | 295 | = 74 74 73 74 |
10 | 細石 憲二(下関) | 296 | = 72 75 76 73 |
参加者数 97名(アマ31名)