第25回日本オープンゴルフ選手権(1960年)
2023.01.18
1960年9月29日付スポーツニッポン
陳まさかの失格で連覇の夢破れ、小針が繰り上げ優勝
スポーツの世界には「悲劇」という言葉で語られる物語がいくつも存在する。多くは十中八九手にしていた栄冠をどんでん返しで失ったケースである。今から30年前の1993(平成6)年、悲願のFIFAワールドカップ初出場を目前にしながら残り数秒で同点ゴールを決められて夢破れたサッカー日本代表の「ドーハの悲劇」は代表的な例だろう。ゴルフの場合、プレーが終わってなおスコアカード提出というひと仕事が待っている。ここでまさかの「悲劇」に見舞われた例もある。1957(昭和32)年全米女子オープンでは誰よりもいいスコアで72ホールを終えたはずのジャッキー・パンが過少申告で失格となり、1968(昭和43)年マスターズではロベルト・デ・ビセンゾが17番ホールのスコアが実際よりもひとつ多く書かれたスコアカードを提出してプレーオフの機会を手放した。
日本オープンで同様の「悲劇」が起こったのは1960(昭和35)年のことである。
この年の会場は兵庫県の廣野ゴルフ倶楽部(6950ヤード、パー72)だった。大会連覇がかかる陳清波は予選ラウンドを終えて3アンダーの141で首位に立っていた。小野光一が1打差2位、小針春芳が2打差3位で追う展開で36ホールの最終日はこの3人が同組でプレーした。
前夜の雨が残っていた午前の第3ラウンド、各選手伸び悩み、陳と小野が76、小針が75にとどまった。陳が依然として1打差首位、小野と小針が2位に並んだ。4位は3打差で橘田規がつけていた。
午後、雨は上がったが風が強くなった。陳は一時首位から陥落するが再奪首。最後は小針に2打差をつける通算4オーバーの292で連覇を飾った、はずだった。
ゴルフ誌の『ゴルフ』によるとスコアボードに書き込まれた陳のスコアを見た新聞記者が最初に気づいたそうだ。ボギーの「5」であるはずの11番ホールのスコアがパーの「4」になっていることを。
知らせを受けた競技委員会は陳とマーカーの小野に事実確認。過少申告による陳の失格が決まった。
これで、2位でホールアウトしていた小針の繰り上げ優勝となった。3年ぶり2度目の日本オープン制覇である。
もちろん、小針の顔に笑みはない。『ゴルフ』には「こんな優勝の仕方は後味が悪くて仕方がない。陳さんには気の毒なことをしました。それにしてもこれも規則だからどうにも……」という戸惑う小針の談話が掲載されている。
陳は内心、激しく動揺していたはずだ。しかし、取り乱すことなく、紳士然とした態度は崩れなかった。「自分の不注意だから仕方ありません。小野さんからカードを見せてもらったとき数回計算して合計が合っていたのでサインしたのですが、内容を確かめなかったのが失敗でした」という陳の言葉がスポーツニッポン紙にある。各メディアが潔いスポーツマンらしさに賞賛を送るほど、陳の振る舞いは立派なものだった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
小針春芳(こばり・はるよし)1921(大正10)年4月24日生まれ、栃木県出身。生家近くの那須GCに就職し、キャディーをしながらゴルフの腕を磨く。1940年、那須GCで行われた関東プロ招待競技で研修生ながらプレーオフに進んで2位となりプロに認定された。1955年関東プロで初優勝を飾って実力が開花。日本オープン、関東プロ、関東オープン各2勝を挙げた。2012年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第25回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 小針 春芳(那須) | 294 | = 70 73 75 76 |
2 T | 松田 司郎(鳴尾) 小野 光一(程ヶ谷) 藤井 義将(霞ヶ関) O.J.Moody(座間) |
299 | = 75 75 72 77 = 70 72 76 81 = 71 74 76 78 = 73 74 77 75 |
6 T | 戸田 藤一郎(関西PGA) 中村 寅吉(関東PGA) |
300 | = 72 78 75 75 = 74 75 74 77 |
8 T | 石井 迪夫(芦屋) 橘田 規(広野) 杉原 輝雄(茨木) |
301 | = 74 71 82 74 = 75 70 75 81 = 77 75 78 71 |