第19回日本オープンゴルフ選手権(1954年)
2022.10.03
1954年9月30日付報知新聞
林由郎が4年ぶりの大会2勝目
東京ゴルフ倶楽部は日本で初めて日本人の手によってつくられたゴルフ倶楽部である。最初は東京・駒沢にコースを構えた。その後、朝霞(埼玉県)を経て現在の埼玉県狭山市に移転。1954(昭和29)年、狭山移転後初めてとなる日本オープンが行われた。東京ゴルフ倶楽部としては4回目(駒沢1回、朝霞2回)の日本オープン開催である。コースは6740ヤード、パー72という設定。9月27日、快晴微風の中、大会がスタートした。
初日、首位に立ったのは1アンダー、71で回った林由郎と陳清水だった。ともに3番パー5でイーグルを奪っている。1打差の3位は石井迪夫、2打差の4位には中村寅吉、和田利夫と大会初出場の陳清波がつけた。
石井迪と中村は8月に行われたカナダカップ日本代表。この年が日本にとって初めてのカナダカップ参戦だった。
雨の2日目、林はショットが乱れたがパッティングでカバーして74にまとめ、通算1オーバー、145で単独首位となった。1打差の2位にはこの日ベストスコアの72で回った小針春芳が浮上。2打差3位に石井迪、3打差4位に中村が続く展開で、初日首位タイの陳清水は78と崩れて5位に後退した。
この年の予選カットは50位まで。163ストロークまでの53人が決勝ラウンドに進んだ。
36ホールで争う最終日、林は午前の第3ラウンドアウトで4バーディー、1ボギーの33をマーク。一気に抜け出した。
インは37で第3ラウンドは70。この時点で2位の小針に6打差をつけた。
楽勝ムードが漂いかけたが、最終ラウンドアウトで林は38と停滞。34を叩き出した小針に2打差にまで詰め寄られた。
林はインでも40と苦戦する。ただ、小針も41と失速してしまう。林は小針と最終ラウンドを73にまとめた石井迪に3打差をつけて4年ぶりの大会2勝目を飾った。
林のスコアは5オーバーの293。戦後の5大会で最も悪いスコアとなった。当時の日本ゴルフ協会常務理事で関東ゴルフ連盟理事長でもあった小寺酉二はゴルフ誌の『ゴルフ』に寄せた観戦記で「今回の優勝スコアは林君の293で、これは5オーバーパーだ。これはグリーンが高麗芝で難しいとはいえるが、どうも飽き足らない数字といえる」と厳しく評している。
スコアはともかく林は東京ゴルフ倶楽部との相性が良かったようで、1948(昭和23)、1953(昭和28)年の関東プロに続いて戦後、同所でのトーナメントで3戦全勝となった。
余談になるが、『ゴルフ』では最終ラウンドの10番ホールでティーショットの飛距離計測を実施。最も飛ばしたのは石井朝夫で距離は264ヤードだったようだ。
(文責・宮井善一)
プロフィル
林由郎(はやし・よしろう)1922(大正11)年1月27日生まれ、千葉県出身。子供のころに自宅近くの我孫子GCでキャディーを始め、その後プロとなる。戦後初のプロ競技となった1948年関東プロで初優勝を飾り、49年日本プロ、50年日本オープンと戦後の第1回大会を次々に制していった。日本プロ4勝、日本オープン2勝などの実績に加え、青木功、尾崎将司、尾崎直道、飯合肇(日本男子ツアー)、海老原清治(欧州シニアツアー)、福嶋晃子(日本女子ツアー)と6人もの賞金王・女王を育てた名伯楽としても名高い。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第19回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 林 由郎(我孫子) | 293 | = 71 74 70 78 |
2 T | 小針 春芳(那須) 石井 迪夫(芦屋) |
296 | = 74 72 75 75 = 72 75 76 73 |
4 | 孫士釣(=小野光一、程ヶ谷) | 298 | = 75 74 77 72 |
5 T | 島村 祐正(唐津) 中村 寅吉(関東PGA) 陳 清水(関東PGA) |
302 | = 81 74 72 75 = 73 75 76 78 = 71 78 77 76 |
8 T | 木本 三次(茨木) 石井 朝夫(関東PGA) |
303 | = 80 74 76 73 = 75 79 72 77 |
10 T | 石井 茂(関東PGA) 三田 鶴三(霞ヶ関) 国末 繁(小金井) |
304 | = 74 79 76 75 = 75 78 75 76 = 76 74 77 77 |
参加者数 76名(アマ21名)