第17回日本オープンゴルフ選手権(1952年)
2022.09.05
1952年10月11日付報知新聞
大会新記録で中村寅吉が11打差の圧勝
終戦から7年が経った1952(昭和27)年、4月にサンフランシスコ講和条約の発効によりGHQ(連合国軍総司令部)が廃止された。これにより、GHQに接収されていたゴルフ場の接収解除が進んでいく。静岡県の川奈ホテルゴルフコースも接収が解除され、一般営業を再開。10月には日本オープンが行われた。舞台は富士コースである。10月8日の初日は時々雨が降る中で行われ、5月の関東オープンで大会3連覇を飾った中村寅吉が4アンダー、68のコースレコードで首位に立った。1打差の2位は地元出身で関西に拠点を移していた石井迪夫。川奈所属の陳清水と石井茂が71で3位につけた。
2日目は快晴、微風の好コンディションとなった。中村は再び68で回り、2日間通算8アンダー、136という破格のスコアを叩き出した。当時の予選通過の条件は首位から19打以内である。つまり、155までが決勝ラウンド進出だ。出場96人中、155以内で回ったのは25人。この中にはアマチュア選手は1人もいなかった。
2位につけていた石井迪も70の好スコアをマークして2位の座を守った。中村とは3打差である。3位は143の石井茂。陳は77と崩れて大きく後退した。
36ホールの最終日も好天に恵まれた。午前の第3ラウンドでも中村は好調を維持し、71で上がってきた。一方で石井迪は78と乱れて3位に退いた。代わって2位に上がってきたのは73で回った石井茂。だが、中村とは9打もの開きがあり、大勢は決しつつあった。
午後の最終ラウンドに入っても中村は緩むことなくプレーを続け、12番を終えた時点で通算11アンダーとしていた。ただ、13、14番で連続3パットのボギーを叩く。15番パー5では2オンに成功してバーディーを奪ったが、17番でまたも3パットのボギー。終盤は難解な川奈のグリーンに手こずったが通算9アンダー、279の大会新記録で2位の石井茂に実に11打もの大差をつけて逃げ切り。日本オープン初優勝を手にした。日本のトーナメント史上、280を切ったのはこれが初めてである。
報知新聞には「中村は自分でも、こんなスコアの出ることは予想していなかったと語ったが、彼のドライバーからパットにいたるまですべてのショットがよく、特にショート・ホール4ラウンドを通じ16ホール中、バーディーが4、パーが11、オーバーパーはわずか一回であった。彼のショットの完全なことを示す好い例である」という戦評が掲載されている。内容的にも他を圧倒する素晴らしいプレーであったことが伝わってくる。
中村はこの時37歳。初めて日本と名のつくビッグタイトルをつかみ、大きく飛躍するきっかけとなった大会だった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
中村寅吉(なかむら・とらきち)1915(大正4)年9月17日生まれ、神奈川県出身。1934年にプロとなるが、大輪の花を咲かせたのは戦後。50年の第1回関東オープンで初優勝を飾ってから第一人者へと駆け上がった。57年にはカナダカップで団体、個人の2冠を達成している。主な戦績は日本プロ4勝、日本オープン3勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。また、日本女子プロゴルフ協会初代会長として黎明時の女子プロ界を支えた。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第17回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 中村 寅吉(仙石) | 279 | = 68 68 71 72 |
2 | 石井 茂(川奈) | 290 | = 71 72 73 74 |
3 | 陳 清水(川奈) | 292 | = 71 77 72 72 |
4 | 孫士釣(=小野光一、程ヶ谷) | 293 | = 73 73 73 74 |
5 | 林 由郎(我孫子) | 294 | = 75 74 73 72 |
6 T | 石井 迪夫(芦屋) 内田 義男(関東PGA) |
296 | = 69 70 78 79 = 78 72 74 72 |
8 | 三田 鶴三(霞ヶ関) | 298 | = 77 73 76 72 |
9 T | 寺本 金一(茨木) 石井 治作(京都) |
299 | = 77 69 77 76 = 74 74 75 76 |
参加者数 96名(アマ36名)