第15回日本オープンゴルフ選手権(1950年)
2022.08.08
1950年10月4日付日刊スポーツ
戦後復興大会を林由郎が制する
戦後、日本オープンが再開されたのは終戦から5年を経た1950(昭和25)年のことだ。この前年、解散していた日本ゴルフ協会(JGA)が再建され、日本オープンなど主催競技復活の決議を受けての再開である。大会自体の開催は、実に9年ぶりのことだった。会場は千葉県の我孫子GCである。戦争で荒廃していたコースを立て直し、18ホールプレー可能となったのが1948(昭和23)年。戦後、関東の多くの倶楽部がGHQに接収されていたが、我孫子GCは免れていたため1949(昭和24)年の日本プロ戦後第1回大会の舞台となるなど復興において重要な役割を担った。1950年も日本オープンの後、中1日で日本プロを開催している。
戦後初の日本オープンは10月2、3日に72ホールストロークプレーで行われた。参加したアマチュアの中にはGHQ所属の選手が散見される。中には米国でプロとしてサム・スニードの助手を務めていたというS・ジェニングスという強者もいた。
初日を終えて73、69の142で回った島村祐正が首位に立った。2位には我孫子で生まれ育った我孫子GC所属の林由郎が2打差につけた。
最終日は島村と林の争いとなった。終盤まで島村がリードを保っていたが最終ラウンド13番でバンカーショットをミスして林が追いつく。タイで迎えた17番パー4、島村が2オンしたのに対して林は2打目がバンカーにつかまった。我孫子GCの象徴でもある深いバンカーである。だが、我孫子で育った林は数えきれないほど深いバンカーから練習してきた。寄せる技も自信もある。渾身の1打はピンそばにピタリと止まった。
林がピンチを切り抜けた一方で、島村は短いパーパットを外して3パットボギー。ついに林がリードを奪った。そして最終ホールでこの1打差を守って林が日本オープン初優勝をつかみ取った。
林は前年の日本プロに続く優勝。さらには中1日で行われた日本プロで連覇を飾り、復興した日本プロゴルフ界のヒーローとなった。
ローアマチュアは宮本留吉らと並ぶ11位に入ったジェニングス。“元プロ”の実力を発揮した。
(文責・宮井善一)
プロフィル
林由郎(はやし・よしろう)1922(大正11)年1月27日生まれ、千葉県出身。子供のころに自宅近くの我孫子GCでキャディーを始め、その後プロとなる。戦後初のプロ競技となった1948年関東プロで初優勝を飾り、49年日本プロ、50年日本オープンと戦後の第1回大会を次々に制していった。日本プロ4勝、日本オープン2勝などの実績に加え、青木功、尾崎将司、尾崎直道、飯合肇(日本男子ツアー)、海老原清治(欧州シニアツアー)、福嶋晃子(日本女子ツアー)と6人もの賞金王・女王を育てた名伯楽としても名高い。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第15回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 林 由郎(我孫子) | 288 | = 72 72 74 70 |
2 | 島村 祐正(九州) | 289 | = 73 69 75 72 |
3 T | 井上 清次(相模) 岩崎 正人(軽井沢) |
294 | = 73 76 75 70 = 76 74 73 71 |
5 | 島田 二郎(程ヶ谷) | 296 | = 76 75 71 74 |
6 T | 石井 朝夫(松竹) 中村 寅吉(仙石) |
298 | = 73 78 75 72 = 77 74 75 72 |
8 T | 孫士釣(=小野光一、程ヶ谷) 陳 清水(川奈) 石井 迪夫(川奈) |
300 | = 70 75 79 76 = 74 73 76 77 = 76 72 78 74 |
参加者数 88名(アマ29名)
※1942年(昭和17年)~1949年(昭和24年)は第2次世界大戦のため中止