第14回日本オープンゴルフ選手権(1941年)
2022.08.04
写真はゴルフドム1941年6月号(日本ゴルフ協会所蔵)
戦前最後の優勝者は延(延原)徳春
太平洋戦争の足音がひたひたと近づいてくる中で行われた。日中戦争の戦線拡大もあり、日本ゴルフ協会(JGA)のHPによると、この年は日本オープン、日本アマ、日本プロの3試合のみの開催となった。この年、ゴルフ界に衝撃が走っている。2年前の大会覇者で年間グランドスラムを達成し、前年も宮本留吉と優勝争いを演じて「2強」と言われた一角、戸田藤一郎が所属先とのトラブルで除名処分を受けた。ゴルフドム誌6月号では「闘将戸田の抹殺」というコラムを生澤朗氏が寄せている。「昨年度のオープンに見た数百の観衆が戸田組、宮本組を取り囲んだことを思うと実に寂寞の感がある」と書いている。
そんな中で、日本オープンは5月8~10日、神奈川・程ケ谷カントリー俱楽部(6667ヤード、パー72)で開催された。73人(アマ24人、プロ49人)が出場、戸田なき後、宮本が優勝候補筆頭だった。
第1ラウンドは初出場の20歳、小針春芳が71をマークして、行田虎夫とともに首位に立った。2打差で延原徳春(当時の日本名)、岩倉末吉、小池国喜代が続いた。
第2ラウンドでは、小針が77をたたいて脱落し、代わって4アンダー68のコースレコードを出した中村寅吉と延原、行田、岩倉が首位に並んだ。
36ホールで行われた最終日、第3ラウンドでまず延原が1番で第3打をダフって乗らなかったが、4打目でチップインするなど「運の神様がついている」(ゴルフドム誌)と以後手堅いプレーを展開して単独首位に立った。中村、宮本が追走する展開になった。
最終ラウンド、追う宮本が2番でOBを出して脱落し、延原、中村の争いになった。2人の終盤のプレー内容は、ゴルフドム誌に詳しい。延原は16番でティーショットを左の谷に落としたが、パーに収めた。17番はバンカーに打ち込んだが、ピンに寄せてパー。最終18番ではライの悪いラフに打ち込み、やっとグリーンに乗せてパーと、相当苦労した終盤だった。
中村は16番でバーディーを逃した。17番ではフックで打ってバンカーを越えたが、ギャラリーの頭にボールが当たって左の谷に落ちる不運。何とかパーに収めたが、3打差を縮めることは出来ず、延原の初優勝が決まった。
延原は現在の韓国のソウル市出身。延徳春が本名だが、JGAHPによると、当時の朝鮮総督府の命令で日本名を名乗らされていた。
ゴルフドム誌に優勝後の延原の手記がある。一部を抜粋する。
「私は大会が始まる4日ほど前にこちらへ着いて、練習は丸3日間みっちりとやりました。日本オープンに優勝するなどとは最初から全然考えていませんでしたので、自分の力の限りを尽くすまでと思って試合に臨みました。いざプレーを始めてみると、不思議にも練習で出なかった調子がだんだん出てきて思うようにショットができ、さらにパットは自分ながら意外とよくて、これは入る!と思ったパットはたいてい入り、3パットが2回ぐらいしかなかったのは私としては全くラッキーでした。
初日73、2日目72でクオリファイできたので決勝はぜひ頑張らねばと思ったのですが、午前はあいにくの風雨でしたので崩れやしないかと多少心配でした。しかし、一緒に回っていた成宮(喜兵衛、アマチュア)さんが、とても激励されながら気軽にやってくださったので、私も大いに励みとなり、スムーズにプレーできたのが何より幸いでした。成宮さんは私が楽にプレーできるように絶えず気を配ってくださいました。多少の難しいショットも落ち着いて自信をもってやれました。これもみな成宮さんの御激励の賜と感謝いたしています」
この年の12月8日、日本は真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入する。日本オープンは以降、1950年に再開するまで開催されなかった。
ゴルフドム誌を飾る表彰写真で延原が掲げる日本オープンのトロフィーは、延原の手でソウルに渡ったが、戦争の混乱の中で所在不明となった。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
延徳春(ヨン・ドクチュン)1916年生まれ、韓国・ソウル市出身。当時の京城ゴルフ倶楽部でゴルフを始めたという。ゴルフドム誌によると、1935年にゴルフ修行のため、藤沢カントリー倶楽部に所属。38年日本プロでは準決勝で戸田に敗れた。同年日本オープンでは5位に入っている。39年日本プロでは準決勝で宮本に敗れた。戦後は1956年カナダカップに出場、58年第1回韓国プロゴルフ選手権で優勝している。韓国プロゴルフ協会の前身となる親睦会をつくり、後進の育成にも力を注いだ。
第14回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 延原 徳春(=延徳春、京城) | 290 | = 73 72 71 74 |
2 | 中村 寅吉(程ヶ谷) | 293 | = 76 69 74 74 |
3 | 樫 国秋(霞ヶ関) | 294 | = 77 73 74 70 |
4 | 浅見 緑蔵(程ヶ谷) | 296 | = 76 73 75 72 |
5 | 行田 虎夫(茨木) | 297 | = 71 74 77 75 |
6 T | 陳 清水(武蔵野) 岩倉 末吉(藤沢) 古賀 春之輔(山田) |
298 | = 77 73 76 72 = 73 72 78 75 = 74 79 75 70 |
9 T | 孫 士釣(=小野光一、満州)) 宮本 留吉(茨木) 小針 春芳(那須) 島村 祐正(福岡) |
299 | = 75 78 75 71 = 74 73 73 79 = 71 77 76 75 = 76 70 78 75 |
参加者数 73名(アマ24名)