第12回日本オープンゴルフ選手権(1939年)
2022.06.27
ゴルフドム1939年7月号(日本ゴルフ協会所蔵)
26歳戸田藤一郎が初の日本一に輝く
廣野ゴルフ俱楽部で6月7~9日の3日間、開催された。ゴルフドム誌にその模様が詳しく書かれている。「本年度のオープンの感想」を寄稿したのは高畑誠一氏だった。この年は選手として出場していなかったようだ。高畑氏によると「秋に挙行されるのが慣例であるが、晩秋にティーとフェアウエーを荒らされると芝草の回復が不可能で、会員に次年度初夏まで不愉快と迷惑をかける恐れが多分にあるので、廣野の希望で晩春になった」とある。距離は「カードには6775ヤードとあるが、オープンのため延ばしてあるから6800ヤード近く」で、パー72に設定されていた。ちなみに全米オープンと同じ日程で開催したという。
高畑の感想には、予選ラウンド2日間各18ホール、決勝ラウンド36ホールのプレー詳細はあまり書かれていないが、トップアマらしい視点で書かれているところがある。「廣野はベントグラスのグリーンとしては広すぎる。ローラーはめったに使用しないため、目土を度々やる結果、グリーンは固くない。球がよく止まる。プロには最もやさしい。高麗グリーンのオープンと比べてアプローチもパットもやさしいので、良きスコアが出るはずなるも、問屋はそう卸さない。第一、プロ諸君は相当ナーバスになる。第二に天候に左右される」と記している。
予選ラウンド第1日、宮本留吉が首位に立つ。大阪朝日新聞によると、宮本は1、5番でボギーが先行したが、9番でイーグルを取り、12、17番でバーディーを奪って2アンダー70で回った。1打差で森岡二郎が続き、優勝候補の陳清水、林万福は2打差、戸田藤一郎は3打差でスタートした。
予選ラウンド第2日、戸田が浮上する。アウトを2アンダーで回り、インをパープレーで抑えて通算1アンダーとした。宮本は堅実なプレーで73で回り、戸田と同じ通算1アンダーで首位を守った。
決勝ラウンドは前夜からの雨が止まず、小雨の中をスタートした。約1時間後に雨はやみ、午後は快晴になった。
午前は戸田が1アンダーで回り、通算2アンダーとして首位に立った。宮本は76と崩れ、戸田に5打差に後退。代わって、3打差で陳が2位に浮上し、優勝争いは2人に絞られた。陳は午後の6番で「1尺(約30センチ)のパットを軽率にもミスして非常に気を腐らし、7番のティーショットを右に押し出して」(ゴルフドム誌)と、アウト39と崩れて、戸田の一人旅になった。
その戸田にアクシデントが起こる。大阪朝日新聞によると、17番のバンカーで「砂の堅さを踵で確かめんとしたため、2ペナルティーを科された」とある。それでも、首位は動かず、午後73で回り、通算1アンダーでホールアウト。陳に5打差をつけての勝利だった。
ゴルフドム誌は戸田初優勝の瞬間をこう伝えている。「ボールがカップに落ちた音がしんと静まった中ではずいぶん大きく聞こえる。パートナーの内田君もホールアウトした。二人はホッとしたように堅く握手する。何か破れたように拍手の音が高く晴れた空に響く。カードをつけながら歩く二人を囲んでギャラリーの群れが続く。ヴェランダの時計は三時三十七分。これが今年のオープンチャンピオンの決定した時間なのだ」と、新しいチャンピオンを祝福している。
戸田自身が「栄冠を獲(か)ち得て」と題してゴルフドム誌に寄稿している。抜粋してみる。
「幸いにして優勝を得まして喜びに堪えません。私のこれまでのオープンはいつも第二日目にスコアを崩していました。今年は何とかしてこの失敗をしたくないということにもっぱら意を用いました。そのためか、第二日に宮本さんに追いつき、自分でもこれならばあるいは…といった希望をはっきりと持つことができ、楽な気分で第三日をプレーできました。
なにしろ、ホームコースだけに幾分かは気持ちの上で負担を感じていました。元来、私はドライバーがあまり得意ではありませんだけに、まずドライバーが正確に飛ぶように注意しました。パットは私としては好調-というよりは平常の調子を持ち続けていくことができました。
私はアンダークラブで力いっぱいひっぱたくよりは、大きいクラブで楽に楽に打つことを心掛けていますが、練習で一緒に回ってもらった宮本さんもそういうふうに打っていましたので、二人で笑い合いました。
何にしましても、私のような未熟な者がオープンの栄冠を勝ち得ましたのは、あらゆるコンディションに恵まれた上に、各位からの熱心な声援の賜物だと信じます」。
その後、数々のタイトルを取り「鬼才」と呼ばれた戸田、26歳での初栄冠のうれしさが表現されている。この年、日本プロ、関西オープン、プロを制し、年間グランドスラムの偉業を達成している。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
戸田藤一郎(とだ・とういちろう)1914~1984年。兵庫県出身。1933年、18歳で関西オープンに勝ち、19歳で関西プロ、20歳で日本プロと若くして数々のタイトルを獲得。39年には日本プロ、日本オープン、関西プロ、関西オープンに勝ち、当時の年間グランドスラムを達成した。年齢を重ねてからも存在感を示し、63年には48歳の大会最年長で日本オープンに優勝し、71年には56歳で関西プロを制している。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第12回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 戸田 藤一郎(広野) | 287 | = 73 70 71 73 |
2 | 陳 清水(武蔵野) | 292 | = 72 72 73 75 |
3 | 宮本 留吉(茨木) | 297 | = 70 73 76 78 |
4 | 林 萬福(東京) | 299 | = 72 73 75 79 |
5 | 森岡 二郎(鳴尾) | 302 | = 71 74 79 78 |
6 | 中村 寅吉(程ヶ谷) | 303 | = 76 72 76 79 |
7 T | 村木 章(宝塚) 小谷 金孝(茨木) |
304 | = 73 77 78 76 = 72 77 76 79 |
9 | 浅見 緑蔵(程ヶ谷) | 305 | = 76 74 75 80 |
10 T | 久保田 瑞穂(相模) 原田 盛治(武蔵野) 柏木 健一(広野) 行田 虎夫(茨木) |
306 | = 74 75 75 82 = 77 76 78 75 = 77 74 79 76 = 80 74 78 74 |
参加者数 67名(アマ19名)